今日、銀座でラーメンを食べました。昔ながらの、みたいな、昭和初期モダン風の建物と銀座でピーンときたわけです。昔からある伝統のお店なのでは?と。
で中入ったらきれいで、昭和初期っぽい雰囲気のなんちゃってモダン(よく言えませんがラーメン博物館みたいなもの?)だった。がっかり。
だが、またさらに店内を見ていると、レジの脇に何枚か写真があって、白黒のおじいさんが厨房でラーメンを茹でている。カウンターから中をのぞくと、写真のレイアウトが一緒で、ようするに今日俺が入った店は、昔ッからある店でリフォームだけしたということでありました。
でてきたラーメンは、かつお節ベースの三鷹江口味。しかも麺も江口風。最高!ちょーうまかった。銀座でこんなものと出会えると思っていなかった。
さらに、てんぱったおばさんの店員が厨房で、ガンコそうなオヤジの後を通る度に軽く怯えが入った声で「うしろとおーりまーす」と叫ぶ。DVの匂いがした。
また、リフォームする際、先代が店を建てた当初は、当時のモダンを目指したはずだ。彼は同時代の先端の店を建てたはず。だが、今の大将は、現代の先端的な意匠をこらさなかった。そして昭和初期モダン風のもの(先代の同時代)を目指すものとしたのだ。
今の大将が後ろ向きである、ということが問題なのではない。問題はおそらく、先代の時にはあった同時代に対する感覚というものが、現代には存在していないということが問題である。それは、大将の保守性によるものではない。先代の時にあった社会的(?)流行へのまなざしがなくなっていることが原因なのではないか。つまり、常に同時代の要素を吸収しながら、新しいものを打ち出していくダイナミックな文明的パワー、店の魂、あるいは連続性が力を失っているのだ。先代が今も生きていれば、彼は様々な現代的意匠を参照し、建築したであろう。しかし、今の大将は、そうすることすらできない。大将はリフォームの際に「一体何を参照したらよいのだろうか?」という問いを立てなかった。店の文明的なパワーがなくなっているのだ。
例えば、ではスーツはどうなのだろうか?スーツという形式に依拠しながら、スーツ職人は常に新しいものを生み出すことができるのだろうか?ちょっと洋服の青山のぞいてきまーす。
2日連続で明らかに更新が失敗した。言い掛かりに終止すること。根拠がないことを書き連ねる行為。無意味な主張。無価値な観点。お店の名前を出さないのは、武士の情けではもちろんなく、また適当なことを自分が書いているという後ろめたさによるものでもない。名前を憶えていないのだ。露天の湯舟に使った猿が屁をこいた瞬間に思い出したどんぐりの隠し場所ですら、僕の意見より輝いて見える。そんなどんぐりを猿の皆さんはどう思われるのであろうか?