最新の酒、それは一昨日。呼ばれていない飲み会にいって気まずかった。「つきあっている=例のきもちいいことをしていること」と言ったら、そんなバカな定義はあるものかと叱られた。中学生が一緒に登下校するというのもつきあってることだし、つきあってるということは、互いを特別に思うことだなどと言われ不愉快。
特別というサインをどこでしくのか、他人とは量的に違うのか、あるいは質的に違うのかきいたが、そんなのわからねえとの返答。何かあったときに、大変と思う強さがちがうとのこと。親友だって何かあったら大変だと思うじゃねえのときいたら、恋人よりかは大変と思わないんだそうだ。
恋人と今朝電車で前にたってたおねえちゃんとの差は量的で、どこかに特別とそうでない人間の区別が繋がっているオメガ地点のようなもの(虹のかけはし?)があるのではないか。知らねえし、知りたくもねえけど。意味まるでわからねえ。ダイヤモンドと同じぐれえ興味ねえ。興味ねえけど、書いた。ただ書いただけだ。ここに書くことと思っていることは関係ねえし。信じられるものもヘビーメタル以外ねえし。みなさんはどう思いますか?
明日のはなまるマーケット、海外のやつは「ま」に入ってると思う。
(続き)
やっぱ「は」っぽい気もしてきた。
あと、一生同じ人を好きになることの話もした。そんなもんはねえと宣った奴がいて、俺は以前、高所恐怖症のナゾを解いたときに指摘した「絶対〜しちゃう」(例えばここから飛び下りたら絶対死んじゃう)の絶対の部分に対する憧れと同じく、絶対好きになっちゃう(一生)という憧れがあります。
私は、少なくともその時その時、一生絶対好きになっちゃうと思うのですが、結局その絶対は、やぶられてしまった。けれども、好きになったら、また一生絶対だ、これこそ好きになっちゃうぞ。そう思いたいのです。(8月吉日)
*高所恐怖症……絶対死んじゃうの認識の絶対の部分に対するのめり込みと、死んじゃうの部分のひく感じが、精神をぐらぐら揺らすこと。